電脳マヴォ・スタッフBLOG:小形克宏:

シンポジウム「マンガ批評/研究の転換期―1995年、『マンガの読み方』の成立過程とその時代」について

先日、本ブログでも紹介した「マンガ批評/研究の転換期―1995年、『マンガの読み方』の成立過程とその時代」に、竹熊とともに参加してきました。

私(小形)も竹熊も、この『マンガの読み方』(以下、本書)を作った経験が、20年後の電脳マヴォ合同会社の創立につながっていることを考えると、こうしたシンポジウムが開催されることに多少の感慨を禁じ得ません。ここでは、当日の報告やその補足をしつつ、本書について振り返ってみたいと思います。

『マンガの読み方』制作の構図

当日は、まず野田謙介さんと三輪健太朗さんから、「マンガの読み方と「マンガ表現論」の成立過程」と題する報告がありました。これは現役のマンガ表現論の研究者であるお二人が夏目房之介さんが保存していた資料に依拠しつつ、本書がどのように成立していったのかを解析したものです。

これに続き「『マンガの読み方』の舞台裏」と題して、私と竹熊に加え、当時宝島社の社員編集者だった近藤隆史さん、編集を手伝った斎藤宣彦さん、そして夏目さんが司会で座談会がおこなわれました。

私はその中で、野田さんと三輪さんの丹念な分析を讃えつつも、編集者の存在を捉えそこなっているように見えることを指摘しました。今あらためて分かりやすく図示すると、以下のようになるでしょう。

上図を単純化すると、夏目・竹熊というメインライターと、編集者グループの三者が相互に影響し合い、それらを他の執筆者が取り囲むという構図になります。

なお、上図では「他の執筆者」と概括してしまいましたが、これには執筆しなかった研究会参加者も含まれています。なんとなれば、本書は刊行に先行して1年8ヵ月、23回にわたって開かれた研究会でおこなわれた発表を基礎においているからです。具体的には発表内容は当然として、それらで集められたマンガ作品の図版があちらこちらの記事で使われています(とはいえ、研究会資料の図版はそのまま入稿できる品質ではないので、改めて原本を探してきれいに複写し、同時に書誌を記録するのが本当に大変でした。確かこの辺りも斎藤さんの役目ではなかったか)。

また、編集者グループは3人になっていますが、この時点で斎藤さんは(その後の活躍はともかくとして)エアコン会社を辞めたかどうかというキャリアでしたから、要するに編集とは主に小形と近藤さんの2名のことを指します。

もちろん、編集者グループとして一括しましたが、本書の制作と売れ行きに責任をもつ立場としてまとめただけで、私も近藤さんも個々の思いやモチベーションはあったわけです。

たとえば、この時点で小形は『夏目房之介の講座』(広済堂出版 1989年)、『消えた魔球』(双葉社 1991年)、『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房 1992年)、『新編 学問 虎の巻』(新潮社 1992年)、『読書学』(潮出版社 1993年)、『新編学問〈龍の巻〉』(新潮社 1994年6月)を作った、いわば「夏目付きのフリー編集者」でした。ですから竹熊には申し訳ないのですが、どうしても夏目さんの意図の方を実現する発想をしがちだったと記憶します。

近藤さんと私の役割分担ですが、大まかに個々の執筆者との打ち合わせを含む原稿発注、督促、受け取りと、原稿整理までが小形の役割で、これをデザイナーに渡し、デザインを受け取り、版下制作を介して印刷屋さんに入稿するのが近藤さんの役割になります。

校正も概ね同じで、出校したゲラを各方面(夏目・竹熊は基本的にゲラに目を通していたはず)の執筆者に渡して回収、それらを集約して単一の戻し用校正紙を作るところまでが小形の役割。これにデザイナーからの戻しを転記し、印刷屋さんに戻すのが近藤さんの役割でした。

つまり、執筆者は小形が担当し、デザイナー、版下屋、印刷屋は近藤さんが担当という分担になります。近藤さんは本書以外に何冊も担当していたはずで(私も同様ですが)、今から考えるとよく寝る時間があったなというのが率直な感想です。

『マンガの読み方』以前について

さて、当日の議論について、NHKで夏目さんの番組を担当された市谷壮さんから、以下のようなメールをいただきました。了解をえて転載させていただきます。

今日の座談会では、「手塚治虫はどこにいる」や
「マンガの読み方」以前には、マンガ論は
テーマとストーリー、それにせいぜいセリフどまりで
画的な要素を中心に論じられたものがほとんどなかったこと、
「マンガの読み方」をはじめとする夏目さんの著作が
それに対する批判性を帯びていることについては
ほとんど言及がありませんでした。

 

1995年ごろが転換期だったとすれば、
この点が一番大きいかなと思うのですが、
「夏目以降」のマンガ論から入った世代には、
そのことがピンとこないかもしれません。

素人の哀しさで、ああ、そうだったのか、シンポジウムの終わり頃、宮本大人さんから「『マンガの読み方』以後どう転換したのか、そこに至る参加者の思いは?」と質問されたのに対し、これを答えればよかったのだと初めて思い至りました。今更ながらですが簡単にまとめたいと思います。

1980年冬、大学3年生の時にマンガ情報誌『ぱふ』無給スタッフになったのが、出版の世界に私が足を踏み入れた最初でした。その後、1981年春の編集部分裂をへて、『ふゅーじょんぷろだくと』のスタッフとして編集の仕事をはじめ、1983年に大塚英志とともに数社にロリコンマンガ誌の企画をもちこみ、これが白夜書房『漫画ブリッコ』という雑誌になりました。

夏目さんと初めてお目にかかったのは前述『ぱふ』の宴会で、ここでマンガの手法をテーマにする必要性を吹き込まれたと記憶します。それが『ふゅーじょんぷろだくと』での原稿依頼(なんの原稿だったか忘れました)につながったのが、氏との最初の仕事でした。

その後、1983年に私が編集した『アリスクラブ』で連載をお願いしたのですが、版元群雄社の倒産によりあっけなく7号で廃刊。これによりほとんどの原稿料が未払いとなったのですが、倒産後数年たってから元社長に交渉してお金を引き出し、これを未払い原稿料の一部の支払いに充てるということがありました。

夏目さんとの関係が復活したのはこれがきっかけでした。夏目さんも勤務先が倒産した経験があり、私のそうした働きかけを珍しがってくれたのだと思います。その後少したってから1987年にNHKの若者番組『土曜倶楽部』で夏目さん担当のコーナー「講座」で取材・アイデア出しを手伝うようになり、その単行本化をはじめ、以降フリー編集者として氏の単行本を作るようになるというのが、私なりの『マンガの読み方』前史になります。

この経歴から分かるように、私はずっとマンガ評論業界の住民だったわけです。シンポジウムでも発言された飯田耕一郎さんとは「ふゅーじょんぷろだくと」時代に原稿をお願いしましたし、故米沢嘉博さんとは会えばコーヒー(たまにはお酒)をご一緒する程度には親しくさせてもらいました。村上知彦さんとは1989年頃には事務所の一角を間借りさせてもらうようになる関係でしたし、関川夏央さんとも何度か仕事をさせていただきました。

そうした中で感じていたのは、マンガの「内容」を論じる人ばかりで、「方法」の部分を論じる人がいないということです(この、物事を内容と方法に分けて見るのは、当時の私の単純素朴な世界観です。「ラーメンは、ラーメンだけでなくそれを丼に入れることで成り立っている」等と言っていた記憶があります。マンガ評論はラーメンの味〈内容〉ばかり論じていて、どんな形の丼〈方法〉に入っているのか誰も論じないということですが、ラーメンの味と器の間に因果関係があるのか等のツッコミは無用に願います)。

つまり、従来のマンガ評論(市谷さんが言う「テーマとストーリー」の評論)が語っていない部分、空白部分を埋めてみたいという「冒険心」です。シンポジウムでは、四方田犬彦さんの1994年『漫画原論』への「対抗心」が話題になりましたが、夏目さん、竹熊も同様と思いますが、私個人は四方田さんの本は読みつつも、それへの対抗意識は薄かったのが正直なところです。

さて、気がついたら夜も更けました。まだ書きたいこともあるのですが、明日もあるのでこの辺りでやめておきましょう。自分が関わった本についてのシンポジウムというものは、滅多にない特権的な出来事と言えます。個人的なことですが、娘に自分の親の仕事を見せることができる貴重な機会を与えていただいたのもありがたいことでした。企画者の夏目さんと関係者の皆さま、そして参加者の皆さまに、深く感謝申し上げます。